【耳をすませば】


仙台市立D中学校 H・A
私は、小学校の時に、大変怖い思いをした。登校の途中、車から降りてきた若い男の人に左腕をハンマーで殴られたのだ。家からほんの約1分の路上だったが、私はとっさに腕をふり切り夢中で逃げた。痛みが分からないほど動転して、怖くて怖くて体中ががたがた震えてすぐには誰にも言うことができなかった。


1時間目の休み時間に、思い切って保健室に行き、傷の手当てをしてもらった時、ようやく養護の先生に打ち明けることができた。養護の先生の連絡ですぐに校長先生と教頭先生が来て、その時の様子を詳しく聞かれ先生方に知らされた。


教室に戻って間もなくして、担任の先生が入ってきて、私の事件のことをみんなに話した。いっせいにみんなが私のことを見るのでとても嫌な気分になったのを覚えている。休み時間のたびに下級生や同級生が私のところへきては、「大丈夫。」「怖くなかった。」などと聞かれた。そのたびに私はすごく嫌だった。


その日は警察の人がきて現場検証に立ち会ったり、放課後は、母と警察まで行き、夜遅くまで、モンタージュ写真の作成に協力させられた。夢中だったので、はっきりとは犯人の特徴は覚えていないのに「100点満点中何点ぐらい。」「80点。」「残りの20点はどこが違う。」その問答の繰り返しで、まるで私が犯人の様な気分になるほど追いつめられる気がしてとても苦しかった。


翌日からは、パトカーや先生方が、学校周辺をパトロールしてくれた。学校や家にマスコミの取材が来たりして、テレビや新聞に報道されたので私のことが有名になってしまった。お店に行くと私の名前まで知っていて根掘り葉掘り聞いてくる。周りの人がみんな私をおもしろがって見ている気がして、外に出るのが苦しくなった。


もっと嫌だったのは、学校の正門や事故現場、駅前に事件を知らせる看板が大きく設置されたことだ。私は微熱が続き、気持ちが不安定になり、学校に行っても教室にいられなくなり、保健室で先生と話をしては早退する日が続いた。気持ちの動揺からか、じんましんが出て、外科・皮膚科・心療内科に通うはめになった。


殴られたことや傷の痛みより心が一番痛かった。学校ですぐに言わなかったのが悪い、子ども110番に助けを求めなかったのが悪いとか、しまいには狂言芝居といううわさまで流れた。恐ろしい思いをして傷ついた私が、なぜ追いつめられなければいけないのだろうか。  警察も学校も、その時の状況やとっさの出来事で無我夢中だったことを、本当に理解してくれていたのだろうか。興味半分にいろいろな人がこの事件のことを分析し批評する。その事で、もっと苦しい思いをする人間がいることなど気にもせず、他人事だから、おもしろがる人もいたのだ。他人の痛みは分からないのだから私と同じような経験をもっている人は、皆同じような思いをしているのではないだろうか。被害に遭った人が、少しでも早く精神的に立ち直ることができるようなケアを一番にすべきなのに、その事をおきざりにしている気がしてならない。このような事件がくり返されることのないよう勇気を持って報道しているのだから、被害に遭った人が少しでも精神的に楽になれるよう、人としての権利を優先にして対応してほしいと思う。


本当は学校を休みたくて仕方がなかったが、休めばもっと行けなくなると思い、とりあえず私は頑張って登校した。1ヶ月以上も早退する日は続いたが、養護の先生はいつも穏やかに接し、私の苦しみを真剣に聞いてくれ、母も説教めいたことを言わず、「迎えにきて。」と電話すると、毎日すぐにかけつけてくれて本当にありがたかった。


そして、このままではいけないと悩んだ私は夢中になれるものを探した。そして、中学受験を思いついたのだ。決心したのが受験日の1ヶ月前。当然時期的には手遅れだったが、両親は、「納得できるまでやってみなさい。」と賛成してくれた。急きょ塾に入って、私は一生懸命勉強に励んだ。今振り返っても、あれほど夢中になって勉強したことはなかったと思う。


案の定結果は不合格だったが、私の心の中は1つの区切りがついたようなすっきりした気持ちになっていた。そして卒業するころには立ち直ることができて、友達とも、今までどおり普通に生活できるようになった。


今でも当時のことを覚えている人に、「そういえばあの事件どうなった。」と聞かれる。そう言われる度に心がズキンとするが、ようやく何とかかわすことができるようにまでなった。


このような体験を通して、私は、被害に遭った人がどれだけ苦しんでいるかを配慮した上での対応が十分にできる社会が1日も早く訪れることを強く望んでいる。


(本文は、仙台法務局・宮城県人権擁護委員連合会の協力のもとに掲載するものです。)
(会報3号掲載より)